2011年12月02日
普通学級の障害児のために~

そういえば、今から16年前の夏のころ、小学校入学にあたり市教育委員会から親子ともに教育相談?などという名目?で呼び出しを保育所を通して受け、papa&mamaと3人で指導主事だったと思われるセンセイとお会いしたそうな・・・・・。
mamaはワタシが3番目の子どもだったので、ショウガイがあるということで、お姉ちゃんたちとは違い、なんか小学校入学に際して、普通の子どもと違う扱いを一方的にされるのに違和感をもったらしい

今でもそのセンセイに言われた
「普通の学級に在籍すると、学年があがっていくと、勉強がついていけなくて、本人(ワタシのことです

この言葉を思い出すたびにmamaは
「そんなふうに、”勉強についていくとかいけるとか”というふうに学校教育を考える、あなたのほうがかわいそうだ

mamaは自分自身が子ども時代が大好きで、子ども文化の中で、普通に一人の子どもとして、誕生の頃から死にそうになりながらもそしてショウガイももちながらもりっぱに生きているワタシを育てたかったそうだ。だって、大人にできることは子どもたちから学ぶことよりそれほど大きくはないんだから。

先日、ある所で小学校卒業以来久々に保育所小学校時代大の仲良しだった

そこは


ワタシたちは思わず手をつないで再会を喜び合った。
実はその時の手のつなぎ方が、握手ではなかったことにそばにいたmamaは、心の中で
”らびちゃんはショウガイがあるから普通の人たちが挨拶する時にする握手(右手と右手をつなぐ)をしないで、右手と左手をつないだんだ。。。。。。”
などと思ったらしい・・・・・・。
ところが、しばらくして、mamaは自分の浅はかさに気がついたそうな~
つまり、ワタシと

というわけで、あいかわらず大人たちはピントがずれているわけであります。

ひさびさ”ワニなつノート”~
『普通学級の障害児のために知っておきたい大切なこと』(その3)
《なにができるでしょうか?》
いわゆる「健常」の同年齢の子どもと比べて、「身辺自立」「言語発達」「学力」という観点から、「障害」のある子どもをみて、普通の学校で普通の授業を受けることは、何の意味もないように言う専門家もいます。
各種の検査で、「1歳3か月」とか「測定不能」などという結果をみて、「何も分からない子」「一人前の社会人にはなれない人間」のようにみてしまう人がいます。
そのような態度の専門家は、その最高の目標を、「人にめいわくをかけないこと」「着替えや、食事、排泄」だけでも自分でできるようになること、に設定してきました。
「知的障害・発達障害」という言葉にしがみついて、普通の子どもとは違うと言ってしまうことはたやすいことです。それは一種の絶望で、いまだによく言われることですが、だからといって正当化されるものではありません。
「見えない」状態を、「見えるように治す」ことは、教育ではできません。
「歩けない」状態を、「歩けるように治す」ことは、教育ではできません。
「知的障害」を、「健常者のように治す」ことは、教育にはできません。
「盲ろう」の人が生きるために必要なことを考えたのは、「専門家」ではありませんでした。当事者の人と、その人を支えようと隣にいた人たちが編み出した数々のスキルや制度を作り上げてきました。
「ASL」の人が生きるために必要なことを考えたのは、「専門家」ではありませんでした。
呼吸器をつけて生きることは不幸なことでないと、自分の生き方を貫こうとした当事者と、その人を支えようと隣にいた人たちとで編み出してきたものでした。
「施設」を出て、ふつうに町の中、社会の中で生きていくことを進めてきたのは、「専門家」ではありませんでした。青い芝の脳性まひの当事者の人たちが、自ら施設を出て、支えてくれる人を自分たちの手で探し、作り上げてきたものでした。
「べてる」でも、「統合失調症」の人たちが病院を出て、地域で生きていくために必要な、「自分を助ける方法」を考えたのは、「専門家」ではありませんでした。「自分の助け方が上手くなるため」の方法は、「当事者研究」を通して自分たち自身で作り上げてきたのでした。
「障害」そのものの本質的なところで、その障害とともに生きている人への援助の方向を、援助する側が決めるというのは、明らかに間違いだと、どの障害の当事者の闘いが示しています。
だから、「知的障害」「発達障害」という特性をもった子どもにであうとき、その「できなさ」に焦点をあて、「できる」ようにすることが「教育」だと間違ってはいけません。
「知的障害」とは、「知的な認識」に障害があるということで、その子どもにまず6歳で入学するときに、「ひらがな」や「かず」を「おしえてあげる」ことを、迷いなく6歳の子どもの教育の基準にしていることが間違いの始まりです。
もちろん、知的障害の子どもに、文字や漢字、数や計算が無理とか、必要ないというのではありません。「できる」子どもは、できるでしょう。障害があろうがなかろうが、それは同じです。
でも、その基準を「健常」に一歩でも近づくことに求めてはいけません。それは、学校の一番の仕事ではありません。教師の一番の務めではありません。
一人ひとりの子どもにとっての、「できる」は、あとからついてくるものです。子ども一人1人にとっての「遅れ」や「理解の仕方」の中身を、知らないままに教えることなど、誰にもできないからです
教師として、健常の子どもを前提にした「学力をのばす」やり方が通用しないということを、単純に受け入れなければいけません。
教師と同じように「学習」する子どもとは違うやり方や、「観察学習」の中身といえるものが、授業という生活の中にあります。教師が、目に見える学力だけでみれば、「できない」という評価だったとしても、子どもが一人の子どもとして、子ども同士のつながりを保つことができれば、授業という生活のなかでできることはたくさんあるのです。
通常、知的障害は、思考や記憶に影響を及ぼしますが、感情や社会性は深刻な影響を免れます。未熟な部分があるとしても、それは障害とみなすよりも、子どもだからとみなす方が妥当です。
そして、適切な手助けと支え、合理的配慮があれば、どんな障害があっても、普通学級で学び、遊び、同級生と生活することができます。もちろん、ときには悩んだり、泣いたりすることもあるでしょうが、それは子どもは誰でも同じです。
一人の子どもの人生を、たかが六歳の時点の「能力」で分けて、一人の人間の一生に取り返しのつかない「制限」を加えてはいけません。
人の一生を、小学校の授業の進め方にあてはめて、「ふさわしい」「ふさわしくない」「こっちへ」「あっちへ」と、振り分けてはいけません。
生まれくるすべての子どもを祝福し、ともに出会い、ともに楽しみ、一人の子どもを大事にする教育と社会を築くために、一人の子どもを中心とした「子ども集団を育てケアする」仕事としての学校の意味と子ども時代を十分に体験するとは、どういうものかをみていきましょう。
Posted by ももこ at
00:40
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