2010年04月13日
温故知新~2008年4月1日&10日のブログ

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<2年前の4月10日のブログ>
普通学級の障害児の通知表が語るもの
ーワニなつ・いろはカルタのノートー(佐藤陽一ブログより)
こ》
子どもの通知表、ついているのは先生の点。
普通学級の障害児の通知表は、だいたいがオール1かオール△か、
とにかくビリの評価がつく。
さんすうも、おんがくも、たいいくも、
障害のない子たちと比べたら、やっぱりそうなるのかもしれない。
でも、時々、音楽の選科の先生が2をつけてくれたりすることがある。
選科の体育の先生が2をつけてくれたりすることがある。
また、先生が変わると、評価が変わることがある。
たとえば、ずーと字を書かない子、しゃべらない子は、
その子の「学力」が変わった訳ではないのだから、
その「変わった評価」の差は何か。
それは、障害を持った子どもたちの側からみた「先生の点」だったりするのだろう。
(この子たちは人間を数字や△の記号なんかで評価するほど野蛮じゃないと思うけど。)
でも、一番下の1や△をつけるのも、
「教師のプライドが許さない」という先生がいて、
そういう人たちは、誰が教えた訳じゃないだろうに、
不思議と同じことをする。それが「斜線」だ。
そして、その理屈もたいがい同じだ。
「1をつけたら、他の子の1がかわいそう」
「△をつけたら、他の△の子がかわいそう」
そんな悲しい理屈を思いつく人生がかわいそうだと、私は思う。
親が斜線の通知表にちゃんと抗議して、
他の子と同じ通知表を下さい、というと、
「そんなに言うなら、1をつけますが、
普通の1じゃなくて、ずっと低い1ですからね」と、
訳の分からないことをいう人もいる。
そんなくだらない理屈が「自分の評価」だと知っておいた方がいい。
「うちの子、全部1だけど、社会だけ2だったの」という話を聞いて
私たちは応える。
「そうか、社会の先生だけが、ちょっとましなんだね」
「え、そうなの?うちの子が社会がんばったんじゃないの?」
「でも、しゃべらないのも、字を書かないのも、 テストが0点なのも変わらないでしょう」
「そうね~」
「子どもが変わったわけじゃないんだから、
通知表の評価は、先生の評価なんだよ。
この子はもともとがんばっているんだから、
社会のせんせいだけ、やっとこの子のがんばっている姿が見えるようになったんだね」
障害のある子どもたちの、小学校から高校までの通知表の話を毎年聞いていると、
分かることがある。
それは、言葉のない子や、字を書かない子でも、
高校の通知表がいちばん良くて、次が小学校で、一番悪い成績が中学校だ。


それに、中学校3年生の時は欠席0で、皆勤だったのに(mamaはこのことに気づいてなかったんだけど。。。



なんで、こんなにがんばって中学校に通ったのに、5回も定員内不合格をだされなきゃならないのよ>

・・・ある保健所のドクターがおっしゃっていたけれど、毎年の定員内不合格(それも障害によって評価できない部分が多い選抜方法で)は、悪意さえ感じると

<2年前の4月1日のブログ>
月間『教育の森』(mamaが大学生時代に購入した本)より

再び「教育の荒廃」と言う言葉の真意
できない子がいてこその営為
<石川先生は語る>
中学校や高等学校では教科担任制がとられ、それぞれ専門の免許証を持った教員が、その教科を指導するという形式をとっている。教えるべき学問内容が高度化してくるから、小学校のように、ひとりの教員がすべての教科を教えるというわけにはいかないのである。
・・・・・・中略・・・・・
ところで、教科教育ということであるが、これはその教科を教える、ということではない。教科を教える、のであったなら、音楽科とか美術科の授業が、義務教育の小・中学校に置かれるのはおかしい。音楽を教えて、音楽家としての素養を、日本中の子どもたちに身につけさせることなど、必要ないはずだからである。
音楽を通じて、豊かな人間的情操を育てようというのが、音楽科教育の目的であるはずだから、音楽を教えるのではなく、音楽で教えるのでなければならない。つまり、教科を教えるのであってはならず教科で教えるのでなければならないのである。
低い次元で低迷している子どもの意識や行動などを、教科教育や教科外教育で、より高次の意識や行動に高めてやろうというのが、現代の学校教育でとられている方法なのである。
この論理に照らしてみると、現在の学校現場には、おかしなことが多い。
「言うことをきかない子」が多い、「学級を乱す子」が多い、「教師に反抗する子」が多い、そして、「授業について来れない子」が多い、というふうな悩みが、どの学校にも大なり小なり存在する。これを学校の外からみると、「教育が荒廃している」ということなるのであろうか。しかし、これらの悩みは、前述の論理からすると、理屈に合わないことになるはずである。
低次元にいる子どもの意識を、より高次元の意識に高めるのが、「教科で教える」ことであるならば、国語科で、社会科で、音楽科で、その他すべての教科、教科外の指導で「言うことをきく子」にさせ、「学級に協力する子」にさせ「授業について来れる子」にさせることこそが、教育そのものであるはずだからである。言い過ぎになることを恐れずに言えば、前の事情のワクの中でだけ考えれば、「言うことをきかない」「学校を乱す」「授業について来ない」実態があってこそはじめて教育が成立するのであって、これらの悩みがないところ(そういう子どもたちを排除したところ)で行われるものは、それは教育ではない、ということになりはしないか。「言うことをきかない子」「学級を乱す子」「授業について来れない子」を、国語科でどう変えるか、数学科でどう変えるか、音楽科でどう変えるか、などということが、教科担任教師としての力量をはかるインデックス(指標)である、とすら言えるのではないだろうか。
そういうことが、できない(と言うより、やろうとしない)教師、あるいは原理的にも方法的にもなにも対応策を考えようとしないで、ただやたらに叱るだけの教師、などなど、そういう学校現場でしかないからこそ、「教育が荒廃している」ということになるのではないだろうか。
世間で言われている「教育の荒廃」ということばの意味は、教師非難のニュアンスを強く持つものなのである。教師たちよ、甘えてはいけない。
(中学校教諭)
Posted by ももこ at 05:41│Comments(0)