2013年05月22日
香川県の伝説の人「高校を10浪した洋介クン」
安田さんお元気ですか?
洋介兄ちゃんは、今もがんばっています。洋介兄ちゃんの裁判が放映されることになりました。多くの方にお伝え下さい。
5月21日(火)18:30ごろ
5月25日(土)13:00~13:55 1時間の特番再放送 5月27日(月)25:30~26:25以上は香川・岡山エリアでOHKです。
そして、ただ今、らび(9浪)とあーちゃん(1浪)は、高校めざして現在奮闘中です。
懐かしい安田さんからの応援メッセージ転載させていただきました。
パーソナルサポート通信 06年11月号
安田 雄太郎(やすだゆうたろう)
共に生きる<形>をつくるのは、分けない教育
四国の香川県で活動している団体、「福祉オンブズ香川」の総会で、講演をさせていただく機会があった。演題は「自分らしく生きるには?」。「障害者自立支援法」が施行される厳しい情勢のなかで、これからどのような展望をもっていけばいいかというテーマだった。拙い講演になってしまったと思いつつ、香川まで呼んでいただいてありがたく思っている。実家が徳島なので同じ「四国」というだけでなく、実は香川には特別な縁がある。というのも、香川在住の知的障害者・多田羅洋介(たたらようすけ)さんの普通高校への就学運動に、大学生の時に微力ながら協力させてもらったからだ。
多田羅さんは、今年の7月で26歳、重度の知的障害をもっている。今は、ヘルパー制度も利用しながら両親と暮らしており、施設ではなく地域での生活にこだわり生きている。小学校と中学校は普通学校に通った。高校も普通学校で学びたかったが、高校側や教育委員会は、高校に行きたければ養護学校に行けばいいという姿勢で、彼を不合格にした。それでもあきらめずに挑戦したが、定時制で定員に達していないにもかかわらず、不合格が毎年続いた。中学校時代の同級生の友達もだんだん疎遠になっていき、彼は孤立していった。私も、何度か教育委員会との交渉や多田羅さん親子の支援のための集会に行った。しかし、多田羅さん親子はつらい春を迎え続け、10年の歳月が流れた。「今年で受験は最後にした」という知らせを聞いて、残念な悔しい思いになった。
僕自身は、養護学校から地域の普通高校に進学し、同世代の健常者たちと高校生活を過ごした。なぜ普通高校で学びたかったのかと言えば、一つは大学に行くための学力をつけたかったからだが、それだけではなかった。同世代の健常者と同じ学校で学ぶことに、不安もあったが興味もあった。それらの根底には、親が介護できなくなった時に施設に行かざるをえないという不安や、養護学校を卒業した後に「健常者中心の社会」に出たときの不安があった。今、親元から離れて生活しているが、これも高校で培った、学力以外の人間関係やそのつくり方の経験によるところが大きい。
このように、自分は普通高校に行きたかったし、貴重な経験を得たにも関わらず、多田羅さん親子に関わったはじめのころは、正直、なぜ重度の知的障害をもっている人が普通高校に行きたいのか、わからなかった。大学に入学したばかりで、大学に行くための学力をつけたいという目的だけが普通高校を希望した理由だと、自分のなかで一つの側面しか捉えられなかったからだ。でも、彼らと関わっていくうちに、自分の偏った見方は変わっていった。
多田羅さん親子は、普通高校への就学運動と同時に、地域でアパートを借りての自立生活にむけた運動を開始した。当時は今以上に、多田羅さんの利用できる在宅での介護サービスはほんの一部で、介護者を自力で募集する必要があった。私も、アパートの近くの大学に行って介護者募集のビラまきなどをいっしょにやった。そこで見つけた介護者とともに、私もいっしょにアパートに泊まることもあったが、まったく多田羅さんを知らない人に介護に入ってもらうのは難しく、また、継続してもらうのはさらに難しく、相当な労力が必要だった。介護者が少なければ、どうしても一人にかかる負担が多くなる。多田羅さんが親元から離れて地域で生きていくためには、多くの支援者が必要だということを、つくづく実感した。そう感じたとき、多田羅さんが普通高校で生活し、卒業後の自立生活を見据えて人間関係を構築していれば、もっと彼の介護を担い、生活に協力してくれる人がいたかもしれないと思った。
多田羅さんのお父さんも「地元で生活するためにも、中学校までに培った同世代の子供たちとの関係をもっと強く、確かなものにしたい…(父・多田羅正)」(1996年10月29日・朝日新聞香川版「多田羅くん16歳」)と述べているように、多田羅さんに必要だったのは、養護学校での特殊な教育ではなかった。彼と関わるなかで実感したのは、自分で服を着替えたり、洗濯をしたり、トイレに行ったりという行為は、教育や訓練で何とかできるものではなく、彼にとっては無理難題を強制されるに等しく、できないことが彼の「障害」であり、「個性」なのだ。必要なのは、関わり、生活を共有してくれる「人」であり、その人たちと地域で生きていくことなのだ。
彼が普通高校を望んだのは、地域で生きていきたいからなのだ。地域で生きていくための人間関係づくりは、養護学校より普通学校のほうが彼にとって有効なのだ。多田羅さんのお母さんが、「〈障害〉がある子供たちは〈障害〉を克服したり、軽減したりするために訓練施設や病院通いに追われ、近所であまり遊べないまま学童期を迎え、〈そんな子〉の学校の小・中・高等部を卒業します。一方〈障害〉がない大多数の子供たちは〈障害〉ゆえにクラスメートになれなかった子供たちの存在を知らないまま大人になります。この両者が協力しあって地域社会をつくっていくのは、とても難しいことです(母・練尾登志子)」(1996年11月9日・朝日新聞香川版「多田羅くん16歳」)と述べているように、介護者募集をしてつくづく思ったのは、子どもの頃から障害児と健常児が分けられ、交流する機会もほとんどないという状況が、双方の関係を疎遠にし、差別的なものにしているということだ。もっとあたりまえに生活空間を共有し、交流することで、ずいぶん変わると思った。
多田羅さんが、施設という特別な環境で生きていくことを選択したのなら、養護学校という選択肢もあったと思う。特殊な教育、特別な支援…。でも、考えてみてほしい。障害者だけが集まる教育現場、障害者だけが集団で生活する環境を。「高校が同世代の社会そのものであるのなら、その構成員の一人として、知的障害の若者がいても当たり前だし、○○できる人、××できない人、いろいろな若者がいてこそ健全な社会です(父・多田羅正)」(1996年10月29日 朝日新聞香川版「多田羅くん16歳」)という言葉は、これらの特殊な教育や生活空間をつくり、障害者と健常者を分けてしまう社会の「異常さ」を思わせる。「できる人、できない人」と人間を振り分け、生活環境や所得格差など、生きるための条件までも振り分けていく「格差社会」とその拡大は、障害者が健常者と共に生きていけない社会をつくってきたことと無関係ではない。
養護学校や施設のほうが安心だから、それを否定するのはおかしいという人がいる。でも、なぜそういう環境でなければ安心できないのか。それは、障害者が普通学校で学び、地域で生きていくことを困難にする差別意識やシステムが根強いからではないだろうか。今、枚方市の「枚方西高校跡地」に養護学校を建設しようという運動がある。枚方在住の障害者で養護学校に行きたい人は、他市の府立寝屋川養護学校(知的障害校)や府立交野養護学校(肢体障害校)に通わざるを得ず、両校は大阪府の示す適正規模(150人~200人)をはるかに超える養護学校になっているという。「通学に往復3時間もかかる児童・生徒もおり、教室も不足している。人権侵害に匹敵する実態だ」、「選択肢の一つとして養護学校は必要だ」、と養護学校の必要性を訴えている。障害をもった子どもが普通学校に通うことがどれだけ大変かは、これらの運動を担い、共感する親子の切実な訴えからも明らかだ。でも、なぜ枚方には養護学校がないのかをもっと考えてみる必要がある。それは、枚方在住の障害児や親、支援者が、苦労し、紆余曲折を経ながらも普通学校で学び、地域で生きていけるための環境づくりに励んできた結果ではないだろうか。私は枚方にまだ3年弱しか住んでいないが、枚方在住の障害者が、困難を承知で養護学校ではなく普通学校で学ぶことを選択し、当事者、学校側、教育委員会のぶつかり合いや議論を経ながらも普通学校で学んできたという事例を聞いたことがある。そういった、枚方の先輩達の葛藤や苦労が、「40万都市に養護学校がないのは枚方市だけ」という状況を、ある意味成果としてつくってきたのではないか? 今も普通学校で学ぶことにこだわり、運動している障害者や親、支援者はいるのだ。「養護学校を選ばざるを得ない子ども」と言ってしまえば、多田羅さんもそれに当てはまるのかもしれない。しかし、彼は何年かかっても高校生になれず、両親の仕事を圧迫されながらも、地域で共に学び、生きることにこだわってきた。「生徒一・六人につき先生一人、生徒一人に年間約930万円費やす養護学校」「生徒十六人につき先生一人、生徒一人に年間約90万円費やす普通校」というデータがある。必要なのは、高いお金をかけて養護学校をつくることではなく、現在ある普通高校に予算をかけ、障害者や親が安心して学べる環境をつくることではないだろうか。枚方に養護学校をつくれば、ますます枚方の普通学校は障害者が学びにくい環境になっていくことが危惧される。共に学ぶ教育をめざしてきた先輩達の地平を崩してほしくない。
多田羅さん親子の地域で生きるための闘いには、多くを学ばされた。普通高校への入学を実現させることはできなかったが、彼らの10年間の闘いの成果は、次の世代の知的障害をもった中学生の高校進学へと繋がっている。多田羅さん親子が頑張ってきたのは、次の世代のためでもあるのだ。今、離れた大阪の地で何ができるでもないが、彼らの人生をかけた闘いを無駄にしないためにも、障害者と健常者が地域で共に学び、生きていける環境づくりに励みたい。
洋介兄ちゃんは、今もがんばっています。洋介兄ちゃんの裁判が放映されることになりました。多くの方にお伝え下さい。
5月21日(火)18:30ごろ
5月25日(土)13:00~13:55 1時間の特番再放送 5月27日(月)25:30~26:25以上は香川・岡山エリアでOHKです。
そして、ただ今、らび(9浪)とあーちゃん(1浪)は、高校めざして現在奮闘中です。
懐かしい安田さんからの応援メッセージ転載させていただきました。
パーソナルサポート通信 06年11月号
安田 雄太郎(やすだゆうたろう)
共に生きる<形>をつくるのは、分けない教育
四国の香川県で活動している団体、「福祉オンブズ香川」の総会で、講演をさせていただく機会があった。演題は「自分らしく生きるには?」。「障害者自立支援法」が施行される厳しい情勢のなかで、これからどのような展望をもっていけばいいかというテーマだった。拙い講演になってしまったと思いつつ、香川まで呼んでいただいてありがたく思っている。実家が徳島なので同じ「四国」というだけでなく、実は香川には特別な縁がある。というのも、香川在住の知的障害者・多田羅洋介(たたらようすけ)さんの普通高校への就学運動に、大学生の時に微力ながら協力させてもらったからだ。
多田羅さんは、今年の7月で26歳、重度の知的障害をもっている。今は、ヘルパー制度も利用しながら両親と暮らしており、施設ではなく地域での生活にこだわり生きている。小学校と中学校は普通学校に通った。高校も普通学校で学びたかったが、高校側や教育委員会は、高校に行きたければ養護学校に行けばいいという姿勢で、彼を不合格にした。それでもあきらめずに挑戦したが、定時制で定員に達していないにもかかわらず、不合格が毎年続いた。中学校時代の同級生の友達もだんだん疎遠になっていき、彼は孤立していった。私も、何度か教育委員会との交渉や多田羅さん親子の支援のための集会に行った。しかし、多田羅さん親子はつらい春を迎え続け、10年の歳月が流れた。「今年で受験は最後にした」という知らせを聞いて、残念な悔しい思いになった。
僕自身は、養護学校から地域の普通高校に進学し、同世代の健常者たちと高校生活を過ごした。なぜ普通高校で学びたかったのかと言えば、一つは大学に行くための学力をつけたかったからだが、それだけではなかった。同世代の健常者と同じ学校で学ぶことに、不安もあったが興味もあった。それらの根底には、親が介護できなくなった時に施設に行かざるをえないという不安や、養護学校を卒業した後に「健常者中心の社会」に出たときの不安があった。今、親元から離れて生活しているが、これも高校で培った、学力以外の人間関係やそのつくり方の経験によるところが大きい。
このように、自分は普通高校に行きたかったし、貴重な経験を得たにも関わらず、多田羅さん親子に関わったはじめのころは、正直、なぜ重度の知的障害をもっている人が普通高校に行きたいのか、わからなかった。大学に入学したばかりで、大学に行くための学力をつけたいという目的だけが普通高校を希望した理由だと、自分のなかで一つの側面しか捉えられなかったからだ。でも、彼らと関わっていくうちに、自分の偏った見方は変わっていった。
多田羅さん親子は、普通高校への就学運動と同時に、地域でアパートを借りての自立生活にむけた運動を開始した。当時は今以上に、多田羅さんの利用できる在宅での介護サービスはほんの一部で、介護者を自力で募集する必要があった。私も、アパートの近くの大学に行って介護者募集のビラまきなどをいっしょにやった。そこで見つけた介護者とともに、私もいっしょにアパートに泊まることもあったが、まったく多田羅さんを知らない人に介護に入ってもらうのは難しく、また、継続してもらうのはさらに難しく、相当な労力が必要だった。介護者が少なければ、どうしても一人にかかる負担が多くなる。多田羅さんが親元から離れて地域で生きていくためには、多くの支援者が必要だということを、つくづく実感した。そう感じたとき、多田羅さんが普通高校で生活し、卒業後の自立生活を見据えて人間関係を構築していれば、もっと彼の介護を担い、生活に協力してくれる人がいたかもしれないと思った。
多田羅さんのお父さんも「地元で生活するためにも、中学校までに培った同世代の子供たちとの関係をもっと強く、確かなものにしたい…(父・多田羅正)」(1996年10月29日・朝日新聞香川版「多田羅くん16歳」)と述べているように、多田羅さんに必要だったのは、養護学校での特殊な教育ではなかった。彼と関わるなかで実感したのは、自分で服を着替えたり、洗濯をしたり、トイレに行ったりという行為は、教育や訓練で何とかできるものではなく、彼にとっては無理難題を強制されるに等しく、できないことが彼の「障害」であり、「個性」なのだ。必要なのは、関わり、生活を共有してくれる「人」であり、その人たちと地域で生きていくことなのだ。
彼が普通高校を望んだのは、地域で生きていきたいからなのだ。地域で生きていくための人間関係づくりは、養護学校より普通学校のほうが彼にとって有効なのだ。多田羅さんのお母さんが、「〈障害〉がある子供たちは〈障害〉を克服したり、軽減したりするために訓練施設や病院通いに追われ、近所であまり遊べないまま学童期を迎え、〈そんな子〉の学校の小・中・高等部を卒業します。一方〈障害〉がない大多数の子供たちは〈障害〉ゆえにクラスメートになれなかった子供たちの存在を知らないまま大人になります。この両者が協力しあって地域社会をつくっていくのは、とても難しいことです(母・練尾登志子)」(1996年11月9日・朝日新聞香川版「多田羅くん16歳」)と述べているように、介護者募集をしてつくづく思ったのは、子どもの頃から障害児と健常児が分けられ、交流する機会もほとんどないという状況が、双方の関係を疎遠にし、差別的なものにしているということだ。もっとあたりまえに生活空間を共有し、交流することで、ずいぶん変わると思った。
多田羅さんが、施設という特別な環境で生きていくことを選択したのなら、養護学校という選択肢もあったと思う。特殊な教育、特別な支援…。でも、考えてみてほしい。障害者だけが集まる教育現場、障害者だけが集団で生活する環境を。「高校が同世代の社会そのものであるのなら、その構成員の一人として、知的障害の若者がいても当たり前だし、○○できる人、××できない人、いろいろな若者がいてこそ健全な社会です(父・多田羅正)」(1996年10月29日 朝日新聞香川版「多田羅くん16歳」)という言葉は、これらの特殊な教育や生活空間をつくり、障害者と健常者を分けてしまう社会の「異常さ」を思わせる。「できる人、できない人」と人間を振り分け、生活環境や所得格差など、生きるための条件までも振り分けていく「格差社会」とその拡大は、障害者が健常者と共に生きていけない社会をつくってきたことと無関係ではない。
養護学校や施設のほうが安心だから、それを否定するのはおかしいという人がいる。でも、なぜそういう環境でなければ安心できないのか。それは、障害者が普通学校で学び、地域で生きていくことを困難にする差別意識やシステムが根強いからではないだろうか。今、枚方市の「枚方西高校跡地」に養護学校を建設しようという運動がある。枚方在住の障害者で養護学校に行きたい人は、他市の府立寝屋川養護学校(知的障害校)や府立交野養護学校(肢体障害校)に通わざるを得ず、両校は大阪府の示す適正規模(150人~200人)をはるかに超える養護学校になっているという。「通学に往復3時間もかかる児童・生徒もおり、教室も不足している。人権侵害に匹敵する実態だ」、「選択肢の一つとして養護学校は必要だ」、と養護学校の必要性を訴えている。障害をもった子どもが普通学校に通うことがどれだけ大変かは、これらの運動を担い、共感する親子の切実な訴えからも明らかだ。でも、なぜ枚方には養護学校がないのかをもっと考えてみる必要がある。それは、枚方在住の障害児や親、支援者が、苦労し、紆余曲折を経ながらも普通学校で学び、地域で生きていけるための環境づくりに励んできた結果ではないだろうか。私は枚方にまだ3年弱しか住んでいないが、枚方在住の障害者が、困難を承知で養護学校ではなく普通学校で学ぶことを選択し、当事者、学校側、教育委員会のぶつかり合いや議論を経ながらも普通学校で学んできたという事例を聞いたことがある。そういった、枚方の先輩達の葛藤や苦労が、「40万都市に養護学校がないのは枚方市だけ」という状況を、ある意味成果としてつくってきたのではないか? 今も普通学校で学ぶことにこだわり、運動している障害者や親、支援者はいるのだ。「養護学校を選ばざるを得ない子ども」と言ってしまえば、多田羅さんもそれに当てはまるのかもしれない。しかし、彼は何年かかっても高校生になれず、両親の仕事を圧迫されながらも、地域で共に学び、生きることにこだわってきた。「生徒一・六人につき先生一人、生徒一人に年間約930万円費やす養護学校」「生徒十六人につき先生一人、生徒一人に年間約90万円費やす普通校」というデータがある。必要なのは、高いお金をかけて養護学校をつくることではなく、現在ある普通高校に予算をかけ、障害者や親が安心して学べる環境をつくることではないだろうか。枚方に養護学校をつくれば、ますます枚方の普通学校は障害者が学びにくい環境になっていくことが危惧される。共に学ぶ教育をめざしてきた先輩達の地平を崩してほしくない。
多田羅さん親子の地域で生きるための闘いには、多くを学ばされた。普通高校への入学を実現させることはできなかったが、彼らの10年間の闘いの成果は、次の世代の知的障害をもった中学生の高校進学へと繋がっている。多田羅さん親子が頑張ってきたのは、次の世代のためでもあるのだ。今、離れた大阪の地で何ができるでもないが、彼らの人生をかけた闘いを無駄にしないためにも、障害者と健常者が地域で共に学び、生きていける環境づくりに励みたい。
Posted by ももこ at 16:11│Comments(8)
この記事へのコメント
地元の健常者に押し付けないでください
Posted by 一言 at 2018年03月10日 04:02
ふーむ・・・・。地域福祉の充実はむずかしいですね。。。
Posted by 会員 at 2018年03月13日 11:17
なるほど、健常な社会とは、障害のある人、ない人が分け隔てなく生きる社会なわけなんですね。記事に感銘しました。
Posted by 通りすがり at 2018年03月30日 23:53
洋介さんの1学年下で同じ満濃中学校に通ってました。
洋介さんは突然教室に走って入ってくるし、叫ぶし、いい印象はありません。
私達にも静かに授業を受ける権利はあるのにと感じていました。
高校受験に関しては定員が切れていても一定以上の点数を取らないと無理だと思います。一人で受験も座ってできないようでしたら不合格が妥当だと思いますが・・・。
同じまんのう町民としては1人に何千万も貴重な税金が使われるのは不服です。
洋介さんは突然教室に走って入ってくるし、叫ぶし、いい印象はありません。
私達にも静かに授業を受ける権利はあるのにと感じていました。
高校受験に関しては定員が切れていても一定以上の点数を取らないと無理だと思います。一人で受験も座ってできないようでしたら不合格が妥当だと思いますが・・・。
同じまんのう町民としては1人に何千万も貴重な税金が使われるのは不服です。
Posted by 1981年生まれ at 2018年04月12日 09:48
点数の取れない子どもにも高等教育が受けらるよう行政主導でしている県もありますが、まだまだ少ないですね。
Posted by まきこ at 2018年04月14日 11:49
先程のを訂正。高等教育でなく、後期中等教育(高校教育)でした。
Posted by まきこ at 2018年04月14日 12:09
親が現実を受け入れられないと、周りに大変な迷惑がかかるのに
本当にやめてほしい
本当にやめてほしい
Posted by Qp at 2019年02月21日 07:20
社会が現実に向き合い、障害あるなしに関わらず、学びたい人には学べる体制を整える、とても大事なことですね。
Posted by エンジェル at 2019年02月22日 09:26